私の味覚は、生まれ育った成長期に母の作ってくれた食事で、味覚の記憶としてインプットされています。素朴な家庭料理でしたが、農家でしたので新鮮な素材には事欠きませんでした。野菜は季節の旬なものを畑でもぎ取って食材にしていましたので、四季の野菜の区分がはっきりしていました。夏野菜のお漬物の味に、東京生活で初めて実家の味が懐かしいと感じたものでした。

 地引網でとれた魚類が、これもまた新鮮で、生シラスの酢味噌和えは地元ならではの珍味でした。
故郷を離れて45年間も経過した今、なぜか昔のことが蘇ってきます。今は亡き母の味が思い出されます。煮物が最高だった、素朴な赤だしの味噌汁に野菜の具が盛り沢山でとても懐かしい、前浜で取れたいわしの黒はんぺんの煮物が食べたいと、走馬灯のように思い出されます。

 妻と二人で鉄板焼き飲食店「お好み焼き・もんじゃ焼き」を始めました。妻が調理師であったこと、地域の住民の一人として近隣の仲間入りをしたいこと、妻の趣味が最大限に活かされること、こんな理由ではじめた店です。妻は料理作りが大好きで、誰もが美味しいといってくれると自慢できます。しかし、所詮素人です。商売にはなっていないと3年経過した今つくづく感じます。それは、味付けにこだわりがありすぎ、食材を吟味する以上に、だし味にこりすぎたり、盛り付けが大きすぎたり、お客の要望より今日の美味しいのはこれと、押し付けがちとなっている事に要因があるようです。しかし、私は「これでよいのではないか。このやり方で続けよう」と思っています。

 私の味の味覚は妻に慣らされてきました。妻の実家は北海道の小樽で、海産物の宝庫であり、また北海道の食材は何でも入手できます。いくらやたらこの美味しさ、鮭料理の種類がこんなにあるのかと、北海道の人と知り合えてよかったとつくづく感じています。鉄板焼きの店なので、鮭のチャンチャン焼きはパーティ予約の目玉です。でも、これらの料理は私にとって一過性のものであると感じています。物珍しい、美味しい、と言ってくれても継続性がないのです。すなわち、心の奥にインプットされた味覚の原点にあるものは、懐かしいお袋の味で、郷愁を呼び覚まし、それがまた食べに来ようという気にさせるものなのです。珍味で美味で上手かった料理は、年に一度か二度食べれば、それで忘れても経験として残り、話の種になるでしょう。

 霜降りの牛肉や、マグロのチュウトロとかの、主役の食材ではないのです。味とは「だし」で左右されます。食べ盛りの成長期に、この「だし」の素として母親が何を使用していたのか、心の奥に味覚としての記憶が刻み込まれています。私は鰹節、さば節、いわしなど魚類の干物系統と鶏のだしが素朴で一番郷愁を感じます。干しえび、こんぶ、椎茸等の味も覚えていますがどうも貴重品であったようで、特別の時、お正月やお祭りなどお客様へのもてなし料理の味覚です。

 「こんぶだし」が味の基調となっており、煮物、吸い物、鍋物などの料理と食材の種類により、こんぶに何か他のだしの素を加えて料理の味を整えています。干しえびや椎茸、あごのにぼしやかしわ等は、欠かせないだしの材料ですが、最もこっているのは「こんぶ」の産地です。いま使用しているのは「日高昆布の天日干し」です。利尻や羅臼とは、だしのぬるめ感が違うと妻は言いますが、私は妻の成長期に覚えた味の原点が日高産だったのではないかと思っています。
「だし」は裏方であり、主役を引き立てる重要な役割です。これを支えるもう一方が、しょうゆ、味噌で、それの裏方は塩、コショウ、ごま油などとなります。わが店は、自家製のたれ醤油、ソースに凝っています。お好み焼きソースも関西から業務用を仕入れますが、当店風の味に変えるため何種類かのだしをブレンドして味を調えています。もんじゃ焼きのだし汁は昆布他数種類のだしを加えています。しかし、これは調理師である妻のこだわりであり、言い換えれば趣味の延長で、味の自己主張が押し売りとなっているのかもしれません。

 主食材が活きて美味しいと感じるのではないでしょうか。私は鉄板で焼き方を担っています。上手く焼けた時、お客さんの食べっぷりを観察しています。この方の味覚に合いますように、お袋の味が思い出されますようにと。
今日も喜んで食べてもらえる「料理つくり」に励みます。