旅先の風景に豊富な水の流れがあると安心し、親しみや愛着を感じるようです。パリはセーヌ川、ロンドンはテムーズ川、バンコクは水上マーケット、香港の水上レストラン、桂林の川と奇岩の取り合わせ、それぞれ町のイメージのキーワードです。その意味で、日本人に親しまれる観光立国イタリアの中でヴェネツィア(英語式でベニス)が一番人気なのは「水の都」と呼ばれているところにも起因しているように思います。確かに町全体が運河に囲まれ、街中は無数の水路でつながっていて、いかにも浮島のように感じられます。こういう環境からヴェネツィアには車はおろか自転車もないといわれています。従って、旅行者も自分の足で観光するしかありません。それで十分なエリアに殆どの見所が凝縮されています。

 10年以上も前の1992年秋のことです。銀行のお偉いさん4人をエスコートしてサンマルコ広場に近いホテルに一泊した翌朝、前夜のワインの飲み過ぎで重い頭を抱えながら市内観光に出かけました。ホテルから200mも行くとサンマルコ広場です。ここには「サンマルコ寺院」「大鐘楼」、それに「ドゥカーレ宮殿」があり、どれも一見の価値がある歴史的・芸術的スポットですが、そういう世界にあまり関心のない無粋な我々は広場を素通りして、ふらふらと奥の路地に入っていきました。せっかく雇ったベテランの日本人ガイドは仕事がなくなってしまいました。

 観光客相手の小店が両側にびっしりと並んでいます。日本人にはチョット不気味な「お面」(カーニバルの仮装行列で被るマスク)のお店、眩しい灯りのもとで輝くヴェネチアン・グラスのお店、革製品屋に宝石店、小さなブティックなどが続きます。トルコ・イスタンブールのバザールにも似た雰囲気です。
所在無気に歩いていた二日酔いの男5人衆が急に元気になったのは、日本の「焼きたてパン屋さん」そっくりの店構えをした「ピッツェリア」。そう、あのピッツァ(日本ではピザ)のお店です。カウンターにはいろんな種類のピッツァが並んでいます。5人衆はどれが美味しいかとイタリア美人の看板娘に日本語で何度もしつこく聞いています。彼女に相手をしてもらいたかっただけのようですけど。誰かが適当に指差すと、後ろに控えた美人お姉さんの30年先を思わせる太っちょのおばさんが適当に切ってくれます。その場で立ち食いです。薄めの生地にたっぷりとチーズが載った焼きたてのアツアツですから美味しくないはずがありません。当旅行中最高の美味だったというのはいささかオーバーですが。

 土産物屋が並ぶ回廊のような橋は人の流れ、下の運河は水上交通のヴェネツィアきっての要所です。乗客満載のヴォパレット(水上バス)や雑貨を積んだ小舟にゴンドラが行き交っています。周囲のすべての人が知り合い同士かと思うほど、大きな身振り手振りで親しげに大声でしゃべっています。一日中いても見飽きない場所かもしれません。
本来なら来た道を引き返すのですが、このときはなぜか運河沿いの左手の小道に入ってしまいました。これが大正解で、この日のハイライトになりました。商店街を外れ次第に静かな住宅地に入っていきます。路地の両側は2・3階建ての古い石造りの民家が切れ目なく続いていますが、商店街よりずっと明るく感じます。灰色がかった白壁にはツタが広がり、ところどころ赤い実がついていました。開いていた扉から中庭をのぞくとさりげない彫刻が立っています。路地を曲がると突然小さな広場があって、古い教会に面していました。陽だまりの中でシワクチャのおばあさんとネコがじっと我々を見つめていました。そんな佇まいがずっと続きます。気が付くと男5人は皆押し黙って歩いていましたが、表情はとても穏やかでした。ヴェネツィアの本当の香を楽しんでいました。

 最後はかの有名な「カフェ・フローリアン」でカプチーノを楽しみ、雑踏と喧騒に続いて何か心にほのぼのとした静けさが残るヴェネツィア観光の締めくくりにしました。歩くしかないから仕方なく歩き始めましたが、満足度120%のそぞろ歩きでした。