人間は、泣きながら生まれて来て、ただ一人で逝くものである。
家族や親友がいても一緒に死んでくれるわけでもない。
夫も、妻も、子供も自分の寿命を延ばして呉れるものでもない。
これは、全ての人間に共通のテーマである。

多少の誤差はあっても、人間60歳も過ぎれば一般的に熟年層と呼ばれ、サラリーマンは定年を迎え、自営業者は徳継者に追い立てられ、人生の終着駅へとゆっくりと、中には焦って進む人もある。
「生きがい」も青春時代の将来に向かって大きく膨らむ「生きがい」、仕事、家庭、家族のしがらみに耐える時代の「生きがい」、色々なしがらみから解放され、第二の人生を楽しむ「生きがい」その中身は、可成り異なり、個々で多様化するものである。
私自身も、38年のサラリーマン生活で集団意識の中で和を考え、日本人特有の横並びを意識し、忍耐の時間を過ごして来たように思う。大半の人々は、職場、家庭、近隣社会で“我慢”と“忍耐”の2文字に耐え忍んで過ごしていらっしゃる訳である。
人間は、社会的行動と個人的行動の中で生活せねばならないが、社会的行動の中で“我慢”“忍耐”には地獄の苦しみと共に、数多くのご褒美も貰っている筈だ。
これらの中に、今にして思えば、多くの「生きがい」があった訳である。
「人生、全て地獄なり、その中に少しの極楽がある」とある人が言っているが、その少しの“極楽”が「生きがい」と成って“人”は地獄を生き抜いている訳である。
極端に考え過ぎかもしれぬが、人生の「生きがい」を考えればこんな所ではないか?

年金生活を迎える第二の人生「さぁ−これからは自分の生きたいように過ごすぞ−」と個人的行動ウエートを高め充実したいと思っても、社会経済は悪化、極悪事件、贈収賄事件、破廉恥事件など社会環境の悪化、加えて廃棄物不法投棄、CO2問題等の自然環境の悪化、中々思うような条件下では無い。
趣味、道楽、自由な行動、それに少しの学習等、個々の考え、思いつく枠の中で、且つ、社会的、個人的行動の許容される最大限の範囲の中で、数、種類、物質的なものでも無い、自分の一番充実感のもてるもの、それに求めて戴きたい「生きがい」を!


 ■シニアの生きがい“日本は変る?” ■私の「生きがい」は学ぶこと
 ■生きがい(1) ■生きがい(2) ■生きがい(3) ■INDEX